• コラム

『ぼくらの中の発達障害』という考え方はいかがですか?

青木省三先生は、広島県出身の青年期精神医学を専門とした精神科医です。


私は青木先生の『ぼくらの中の発達障害』(ちくまプリマー新書189 筑摩書房 2012)を読み、そのお人柄に触れ、すっかりファンになりました。どんなところに惹かれたかというと、そうですね……。フラットなところです。フラット、つまり平らなこと…。自分自身を含めて誰かを持ち上げたり、卑下したりすることなく、そのありのままを受けとめられ、ありのままを大切にされているところです。


そして、ほほえみ相談室に来られる方にも、私は皆さんそれぞれに、必ずと言っていいほど、この本の題名の「ぼくらの中の発達障害」という考え方がしっくりくるのだ、という話をさせていただいています。でもそれは、今日は話しておかなくちゃいけないと考えて準備をしているというようなものではなくて、なんとなくいろんな話をしているうちに、自然にそんな感じになるのです。


今は夏休み。昨日は全国高等学校野球選手権大会、通称甲子園が開会しました。3年以上の長い期間、自粛自粛のコロナ禍を乗り越えて、やっとマスクなし、PCR検査や抗原検査なしで県外へ応援にも行ける夏がやって来ました。私の母校の野球部も、この夏は36年ぶりに県の地区大会でベスト4になりました。


なにしろ今年は、地区大会の試合を、テレビではなくネット配信で観戦し、時代の変化を感じました。また、野球部のコーチをやっている友人が、昨年の同窓会の際に立ち上がった同期のグループLINEで勝ち進んでいる様子を案内してくれていたので、選手の保護者として応援席にいる別の友人や、100人以上の同期ともやりとりしながらの数日間はLIVE感満載でした。連日、全国に散っている同窓の老若男女と、ハラハラドキドキの応援です。仕事にも身が入らない状態で、一生懸命応援しました。強豪シード校相手に素晴らしい粘りの野球を魅せてくれて、希望と勇気をくれた選手たちに感謝です。


実は、ほほえみ相談室(メゾン デュ ラ パレット)は、私の実家の敷地内にあリます。そのすぐ近くに母校野球部の練習場があるのですが、放課後のキャッチボールの時の掛け声や、硬式ボールがグローブに収まった時の弾けるようなパシッという音、バットでボールを打った時のカキーンという金属音は、子どもの時からの日常に溶け込んで、すぐそこにあります。夕方、今期最後の熱戦を終えた球児たちが野球場に帰ってきていました。心の中で拍手をしながら、思わずほほえんで見守りました。我が子も野球をやっていたのを思い出したりしながら。


青木先生のお話に戻りますと、この本の「最終章 君も僕も発達障害」の冒頭に、野球にまつわるエピソードが載っています。

 

「🔸あの時、ジャンケンに負けていたら


 原爆が落とされた広島の爆心地に僕は生まれ育った。まだ街の中には、ぐにゃっと形を変えた釘やガラス瓶、溶けて塊となった硬貨など、原爆の跡がいたるところに残っていた。


 僕の小学校時代、広島カープが町の人々の精神的支柱であったが、それだけでなく、当時は町内野球もさかんで、時に大きな大会のようなものもあった。僕は、極めて不器用な子供であったので、めったに野球に声がかかることはなかった。だが、監督が僕のような子供にも野球の機会を持たせてやりたいと考えたのだろう。ある時、「明日の試合に出ておいで」と声をかけてくれた。


 当時、ライトまでボールが飛んでくることはほとんどなかったので、野球が下手な子供はライトが定位置であった。僕は、当然、ライトとなり守備についていた。最終回、一点リードしたところで、僕たちのチームはもう勝ったと、皆、思っていた。その最後の打者が、恐ろしいことに、しかもその試合で初めての、大きなフライを僕の方に打ってきた。打球は高く舞い上がり、同時に僕はパニックとなり、訳も分からないままに前進した。だが、ボールは僕の頭の上をはるかに超えていってしまい、呆然と立ち尽くしていた。「追いかけろ!」と言う皆の声に、ハッとわれに返り、ボールを追いかけて行ったが、ランニング・ホームランで相手に一点が入り、結局同点に追いつかれてしまった。僕は皆にすまないという気持ちと、とんでもない失敗をしでかしたという恥ずかしさでいっぱいになり、皆と目を合わせることもできずベンチに戻った。


そのまま延長戦となったが、それ以上、点が入らず、最後はジャンケンで勝敗を決めることになった。それも打順通りにジャンケンをするという。僕は九番目であった。(中略)だが、恐ろしいこともあるものだ。八番目までのジャンケンは四対四で、僕のジャンケンが勝ち負けを決めることになった。僕はジャンケンも極めて弱い方であった。今でも何故かほとんど負ける。ところが、その時は何を間違ったのか、皆の注目が集中する中で、僕は全員の予想に反して、ジャンケンに勝ったのだ。予想外の結果に皆は大喜びをし、僕のボールを取れなかったという大チョンボは、帳消しとなった。


だが、それ以来、たまに野球をしても、僕はフライが取れない。フライが上がった瞬間に小学校時代のこの光景が蘇り、金縛りのようになってしまう。もちろん、これに打ち勝つには、練習を繰り返すことが必要なのであろう。


当時を振り返って思うに、あの時、僕がジャンケンに負けていたら、僕は、確実に、自分の部屋から出られなくなり、学校にも行かなくなっていただろう。不器用な幼い僕は、その後、ホームランを打つような一発逆転もできなかったことだろう。


僕は確実にひきこもり予備軍であったし、今でも予備軍であると思っている。ひきこもっている人に会うと、いつもジャンケンに負け、ひきこもったかもしれない、不器用な子供の頃の自分を想像する。子供の頃の自分と、ひきこもっている人とが重なって見える。そして、その人の閉塞した世界の出口はどこにあるか、少しでも彼の世界を広げるにはどうしたらいいかと、僕は彼と一緒に考えようとする。」

 


誰も皆、もともと人は凸凹な存在で、得意な分野と苦手な分野があります。また、それだけではなくて、その人をその人ならしめている、その人ならではの個性がありますよね。


実は、この得意と苦手の発想を、子どもの成長・発達を見ていく時にも、私たちはよく使っていると思います。同年齢・同性・同じ学級や学校・地域というくくりで均質化した集団から、子どもの学習面や運動能力の優劣など、どこかに判断基準を置いて、個々の成績を比較して観ていく時に出る観点です。ここで、便宜上、始めから比較しているということを忘れてはいけないと思います。


また、産業革命以来の「強い・早い・大きい」ことに価値があるような価値観の中で、学制発布150年が過ぎた現在でも、明治時代そのままの均質化した管理主義的な初等・中等・高等教育が、日本全国津々浦々、ほとんどの教育課程で続いていることは否めないと思います。これは、出口である大学教育や就職・キャリアデザイン・産業構造と密接な関係があることは周知の事実です。そして、時代に合わなくなってきた教育政策は、近年の不登校の児童生徒数の急増や、教員の精神疾患での退職者数や教員不足にも反映しており、すでに社会問題になっています。


近い将来、人型ロボットならある程度、何でもできるようになるのかもしれません。しかし、それはあくまでも、今までの工業化ロボットと同じかそれ以上に、人を助けるために人が作り出した、あらかじめプログラムされたロボットだからこその価値ではないでしょうか。その正確性や確実性に価値があったり、人には機能的・体力的に難しいことや危険が伴ったりすることを肩代わりしてやってくれることに価値があるのだと思います。


ここでは敢えて、分かりやすく人型ロボットとの違いから考えてみましたが、「何かができること」と「自分の存在や生きることに対しての葛藤を抱えた、ひとりの生身の人としての人間的な価値」とは、全く次元の違うものなのではないでしょうか。


しかし、誤解を恐れずに言えば、まだ日本の教育・子育て観には、「(素直に)大人の言うことに従ってできる子はいい子」、「何かに秀でているより平均的に何でもできる方が良い」、「一人だけ違っているより、みんなと同じ方が良い」という価値観があります。


また、少なくとも、私が教育現場や自分の子育てで経験している、平成3年の学習指導要領改定以来のこの30年の日本の公教育は、教育内容の見直しを「ゆとりと精選」から「盛りだくさん」へと両極端に舵を切りました。それは、信念と一貫性を持って検証を重ね、より良いものに練り上げていく姿勢ではなかったのです。まるで、あっちがダメならこっちへというような感覚が垣間見えます。この辺りの教育行政と時代背景については、また改めて検証してみたいと考えていますが、日々研修をし、授業改善に取り組んでいる教師の身にもなってみてください。方針がまるで逆になるのです。子育てでいうなら、一貫性がなく子どもが不安になるような、一番やってはいけない姿勢をとってしまったのです。こんなことでは、公教育への根本的な不信感を招いてしまうでしょう。


教育方法論にしても、「独自性を持って本質を見極め検証し考える力」を十分に養うようにはなっていないのです。それがのちに、大学受験・就職活動をする頃になっても、「自分が何がしたいのか、どんな仕事をしたいのかが分からない」という若者を多く生み出してしまっているのではないでしょうか。

だからこそ、私たちはそれぞれが自分事として、子どもたちの育ちをどのように保証していけばいいのか、主体的に考えていく必要があるのです。